浸透圧

本や映画の考察・感想・批評など

「やがて君になる」ってどういう意味?

 『やがて君になる』が大好きだ。すでに少なくとも数十回は読んでいるのだが、本誌で45話を読み終えた瞬間から人生をかけて読むことが決定したので、生きている限りこの先も数百回・数千回と読むことになると思う。

 この漫画がいかに素晴らしく美しい物語で、私にとってどのくらい価値があるかについては別の機会に語ることにして、今回はこの一見難解にも思えるタイトルの示す意味について語りたい。なお、以下で括弧書きに書籍名なく記載するものはすべて仲谷鳰著『やがて君になる』第1巻~第8巻(2015~2019 KADOKAWA)からの引用である。

 この物語を読む途中で思いつくのは、七海燈子が、姉になろうとして得た文武両道・人気者であるといった側面を自分であると認識できるようになり、全45話で「ついに燈子になった」という解釈だろう。もちろん、「(本当の)自分とは何か」という部分もやが君の内包するものあり、この読み方もあると思う。ただ、筆者としては、作品全体を包括するテーマが「やがて君になる」に凝縮されていると考えている。そこで①本作品のテーマ ②「君」の指し示す人物 ③「やがて〜になる」という表現 という三点について思うところを述べた上で、「やがて君になる」の意味について私見を紹介する。

 

1  本作品のテーマ 「好き」とは何か。恋愛感情とは何か。「好き」は相手の人格の束縛か。

 なぜこれがテーマであると言えるか。それはこの物語が、好きを知らない主人公の小糸侑が選択を重ね自分の歩いてきた過程を「恋」と言うものだからである。

 また、「『好き』は束縛の言葉」(前掲2巻十話)であると考え好きを恐れていた七海燈子が、侑や佐伯沙弥香との交流を通じて「好き」を受け入れる物語だからである。

 主人公とヒロインの恋愛を通して「好き」とは何かを問うているのである。そして、テーマに対する答えを侑と燈子はそれぞれ提示する。


・侑の変化と「好き」

でもわたしの「好き」はたぶんそうじゃなくて

自分で選んで手を伸ばすものだったよ(8巻25頁)

 わたしは 先輩がわたしの特別だって決めました(第8巻 27頁)

すなわち、侑にとって「好き」とは、燈子の側にいたいという意思とそれに基づく選択の連続であり、その断続的な選択の過程のことなのである。当初、好きが分からず、それを知った燈子を「ずるい」(1巻100頁)とまで言った侑は、40話でついに「好き」を知覚し理解したのである。


・燈子の変化と好き

「侑好きだよ」

これは束縛する言葉

「君はそのままでいてね」

どうか侑 私を好きにならないで

(第2巻 172頁)

 2巻十話から分かる通り、燈子は社会から承認されたのは「澪」を演じ始めた後であり、自分への「好き」はすべて演じた「澪」に対する言葉であると考えている。燈子にとって「好き」は束縛の言葉であり、自分に「七海澪」でいろという強い固定化の要求だった。その燈子が、侑にその努力の部分も燈子自身のものであると言われ、自覚するようになる。

 そして、沙弥香に「好き」は信頼の言葉つまり、ある程度のまとまりを有する人格への信用であると言われ、侑に「好き」でいてほしいと望むのである。

「『好き』って『そのままのあなたでいて』って縛る言葉じゃなかったんだ」

「変わってよかったんだ」

(第8巻 16頁)

 自分を「好き」にならないという人格をもつ侑でいて欲しいという望みから、自分を好きになった今の侑でいて欲しいという望みをもつようになる。つまり、燈子の体験を通して、「好き」は人格の束縛ではなく、人格の変化を受け入れることであることが示される。

 

侑:「好き」を持たない→「好き」を認識するようになる。

燈子:(侑の)「好き」を拒絶する→「好き」を肯定、望むようになる。

という二人の変化が描かれたといえる。

 

 また、もちろん冒頭に述べた通り、燈子について言えば、澪を演じるために得たと考えていた性格(文武両道、人当たりがいい等)も、自分の一部であると受け入れられるようになったところも大きな変化と言えるだろう。

 「好き」が分からず、分かることを望んだ侑と、好きが怖かった燈子は、交流を得てそれぞれ 新しい燈子 と 新しい侑 になったのである。

 ここまでの話をまとめると、この作品は「ついに わたし/私 に なった」ことが描かれる物語なのである

 

 

 

2.「君」の指し示す人物

 やがて「君」になる 「君」とは誰を指すのか。筆者は燈子と侑の二人のことであると思う。なぜそう考えるのか、作品中で「君」と言われた人物に注目したい。

・「君」=燈子

 この作品における大きなキーの一つはやはり文化祭の劇中劇だろう。心理的に燈子と似た境遇の主人公を通して、燈子は自分の「自己」への認識を大きく変えることになる。この劇中劇のタイトルは「君しか知らない」であり、これは侑が考案したタイトルである。

「先輩しか知らない」

「お姉さんじゃなくて 先輩に向けた 気持ちです」

(第5巻 161頁)

つまり、ここでの「君」とは七海燈子であり、作品内において燈子は「君」と呼ばれていることになる。


・「君」=侑

 作品中、七海燈子はところどころで侑を「君」と呼んでいる。

「今日手伝いに来てくれる一年生って君でしょ?」(1巻12頁)

「君もそのままをちゃんと伝えればいい」(1巻37頁)

「君はそのままでいいんだよ」(1巻38頁)

「だって私 君のこと好きになりそう」(1巻46頁)

「君といるとどきどきするの こんな気持ち誰にもなったことなかったのに」(1巻78頁)

「君はいつも私を許してくれるね」(1巻159頁)

「君ってほんと」(2巻21頁)

「私は君じゃなきゃやだけど 君はそうじゃないから」(2巻114頁)

「君の前でただの私に戻るのは居心地がいいけど」(2巻 156頁)

「君はそのままでいてね」(2巻 166,172頁)

 「君はそのままでいてね」とは「好き」によって人格の固定化を望み、変化を拒絶する燈子の思いである。「やがて君になる」が相手の変化の受容、肯定であるとすれば、「君はそのままでいてね」はまさしく対義語なのである。「君はそのままでいてね」の「君」が侑を指す以上、「やがて君になる」の「君」もまた小糸侑を指すと考えていいだろう。

(この部分は余談だが……小糸侑という名前は「恋と言う」から来ていると考えられるが、「恋とYOU」と考えることもできる。2巻以降では燈子は侑を「君」と呼んでいない。それは、最恵国待遇条件付き不平等不可侵条約の締結を経て、侑を代名詞「君」で呼ぶのが不自然になるくらい燈子にとって侑が近く特別な存在になったと考えるのが通常の解釈である。が、3巻以降で燈子が「侑」と呼びはじめたことから「君」の代わりに「You」と読んでいると解釈することも可能である。)

・二人称である「君」

 「君」という代名詞はいかなる状況下で成立するか。それはある特定の二人がいて、ある一人が他方を呼ぶときである。

「君」とは側にいて相手をよぶ二人称である。一人では「君」は成立せず、また誰かが相手を認識し呼ばなければ「君」は成立しない。

 変わっていって新しい「私/わたし」になる相手を側にいて「君」と呼び続ける。側にいるという選択を続ける。タイトルが「私/わたし」ではなく「君」なのは、一方の変化を他方が受容し、側にいることを選択するという意味が込められているように思う。

 


3.未来を指し示す「やがて〜になる」

 もし45話で侑が新しい侑になり、燈子が新しい燈子なったことをもって終結とするならば、その状態を示す言葉は「ついに 君 に なった」になるはずである。

 だが、本作品のタイトルは「やがて君になる」なのである。

「やがて」:おっつけ。まもなく。ほどなく。そのうちに。今に。

広辞苑第6版より)

 

 「やがて」というのは、現在からみて未来を指し示す言葉である。1話から44話までを見通したとき、二人は常に「やがて侑/燈子になる」存在だったのであり、それぞれの視点からみてお互いが「やがて君になる」存在なのである。

特別だったあの日もあの瞬間も今はずっと後ろにある (8巻 188頁)


 45話では44話から数年経った様子が描写されている。大切なことをたくさん話した河川敷ももはやお風呂の洗剤という日常のことを話すものになる。44話のあとも二人はさらに新しい自分になり続け、お互いがそれを見つめて受容してきたことが示された。

 物語は、星や街灯に照らされて二人が手をとり歩く姿で終わる。45話のあともずっと二人は変わり続け、それを受容するだろう。物語は終わっても二人は互いにとって「やがて君になる」存在なのだ。


やがて君になる」とは、過去・現在そして45話の後という将来においても変化を続け「わたし/私」になる侑と燈子が、相手の変化を受け入れて「君」と呼び続ける という二人の船路であり、まさしく、それは「好き」の意味するものなのだ。