浸透圧

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2010年代百合のひとつの到達点「やがて君になる」  

1 はじめに

 2015年連載開始、2019年に全8巻で完結し累計発行部数が100万部を超えた『やがて君になる*1。2017年から開催された百合ナビによる百合総選挙*2では四年連続1位となり、その人気の高さから2010年代後半の百合を代表する作品であると言って過言ではないだろう。だが、売上や人気のみならずその描いた内容からも‘10年代百合の一つの到達点であるということができると思う。なぜそう考えるかについて以下論じる。

 

 

 

2緊張感・秘密性の再構築

  • 恋愛と禁忌

 多くの芸術作品、とりわけ恋愛物は「禁忌」を主題とする。ここでいう禁忌とは法律や道徳といった社会的規範に反する行為をいう。禁忌・タブーの要素を持つ恋愛作品は、そうでない場合と比べて以下の二点の特殊性を有する。

・「タブー」を犯すそのものへの後ろめたさ、ドキドキ感(緊張感)

・「タブー」であるため、二人の関係を秘密にしなければならない(秘匿性)

 

 例えば、不倫関係にある恋愛は古今東西の作品の主題となってきた。不倫関係は婚姻関係を保護する法律やそれに基づいて形成されている“既婚者は他の者と性的関係をもってはならない”という道徳・社会観念に反する行為である。いけないことであるにも関わらず(不倫)相手を愛するという思いの強さや他者を裏切ることへの後ろめたさがある(緊張感)。また、不倫であるがゆえに誰にも話せない(秘匿性)ところに発生する苦しみが読者の心をゆさぶる。もし、現実の社会が婚姻関係にある者と第三者との恋愛関係を一般的に許容する文化であればどうだろう。その文化圏における配偶者の一方の恋愛は、婚姻関係にある場合とない場合で変わりはなく、秘密にする必要性がないはずだ。禁忌を犯す恋愛には、物語を盛り上げ読者の関心を引き付ける緊張感と秘匿性があるといえると思う。

 そして、近年まで同性同士の恋愛も宗教的又は文化的背景から、社会的規範に反するものとされていた。同性間の恋愛関係は一種のタブーであり、それ故に相手を思う愛の強さを強調したり(緊張感)、家族や友人に話せない苦悩、世界から隔絶された「二人だけ」を演出する(秘密性)文脈で描かれてきた。社会に受け入れられない同性との関係をあえて選ぶと言う点に緊張感と秘匿性を見出していたのである。

 

  • もはやタブーではない時代に

もっとも、同性同士の恋愛関係はLGBTQをはじめとするセクシャルマイノリティへの理解が深まると同時に社会的なタブーとはいえなくなった。依然として社会構造による差別は存在しているものの、同性同士の関係性が禁忌であるという観念は少なくとも2010年代の人権思想に適合しない。

やがて君になる」にも、同性愛が社会的規範に反するものであるという前提はない。「女性同士だから」燈子と侑の関係が秘密であったり悩んだりするという描かれ方をしていないのだ。それにも関わらず、(アニメ「やがて君になる」のキャッチコピー「誰にも言えない、ふたりの特別」に象徴されるように、)今までのゲイロマンスに存在した緊張感と秘密性が作品全体に存在するのである。なぜか。それはちょうど社会規範に代替するかのような形で侑と燈子の関係性と約束の論理が存在するからだ。

 燈子は「好き」が怖いので、侑に自分を好きにならないでほしい。侑は燈子を好きにならないと約束するが、本心では燈子を好きになりたいと望んでいる。この燈子と侑の約束が維持されるor破綻する という仕掛けにより緊張感がうまれている。

 また、燈子は表向きは「完璧な生徒会長」であるが、自身では臆病な「ただの燈子」であると考えている。燈子が他人に隠す部分や甘えたなところを優しい侑は他人に言えない。燈子が多くの秘密を抱え、それを侑にだけ吐露し、侑がそれを受け入れたから、燈子と侑の関係は秘密なのだ。つまり、二人の人格とそれに起因する関係性が秘密性を生み出したのである。

 社会規範とそれを裏切るという行為を、個々人の関係性と約束の違背という形に換骨奪胎し、新しい時代に合わせて再構築したということができるのではないだろうか。

 

3「百合」的な記号の踏襲

 女同士の愛が少女漫画で描かれ始めたのは七十年代初めのである。藤本由香里*3はこの頃の百合作品には以下のような典型的なパターンがあったと述べる。

1対照的な二人の容姿。美人でかっこよく、くっきりした性格のタイプと、いかにもあどけない女の子女の子したタイプの組み合わせ。(中略) 2かなり多くの場合、作中に演劇のシーンが入る。とくに『ロミオとジュリエット』が多い。これは周囲から“許されない愛”という暗示もあるだろうが、演劇モチーフが多いのはおそらく「女どうし」ということで「宝塚」がそのイメージの基底をなしているせいだと考えられる。3.悲劇が多い。(後略) 

 

 

 このパターンはジェンダー観や社会情勢の推移とともに変化していくが、百合作品において、こういった対象的な主人公・演劇のモチーフは繰り返し登場している。

例えば1995年に放映された『少女革命ウテナ』はウテナとアンシーは肌や髪の色だけではなくその性格についてもさっぱりしていて「王子様」を目指すウテナと何を考えているかよく分からないようにみえ「花嫁」と呼ばれるアンシーという対照性を有している。また劇中で演劇をするシーンはないものの、作品全体が演劇に使用される演出や舞台装置に満ちている。

  2006年から連載開始、2013年に完結した志村貴子青い花』では黒髪ストレートの万城目ふみと背の低くて可愛らしいタイプの奥平あきらの恋愛模様が描かれるが、あきらは演劇部に所属し、あきらや友人に付き合う形で演劇に参加することになる。また作品の後半では

ふみのパーソナリティが反映された劇がつくられ、ふみの心情とオーバーラップする形になっている。

 この二例だけをもって断言することはできないが、百合文化には人物の対称性と演劇の要素があり、それは各時代の作品に形を変えて受け継がれているといえるのではないだろうか。

なにが言いたいかというと、「やがて君になる」は実はこういった原初の百合・GLの要素を多く踏襲しているということである。

1‘燈子は黒髪ストレートの美人で文武両道のかっこいい生徒会長である一方、侑はまだあどけなさの残るかわいらしい外見をしている。もっとも、内面について言えば侑が大抵のことには動じないしっかりした性格をしているのに対して、燈子は自信がなく甘えん坊である。二人は外見・中身ともに対照的であると言える。

2‘本作品においても生徒会劇という形で演劇が登場する。生徒会劇の成功は物語の重要な一つの局面となる。 燈子の姉・澪がやり残したことがアイドル活動でもなく麻雀やソフトボールでもなかったのは、こうした文脈に一因があると考えることができる。

 

 こういった伝統的とも言える百合の記号を使用する一方で、やが君が革新的なのは、七海燈子という個人の抱える問題を生徒会劇を通してときほぐし、これからの七海燈子を暗示する装置にした点にある。劇中劇には主人公の少女の恋人役も登場し当初はその恋人の求めた「自分」を正解とする結末であったが、侑とこよみの画策により周囲の人間の話した「自分」をすべて受け入れ新たに関係を構築するという結末に変更される。閉じられた恋愛関係だけに帰着することなく、家族や友人といった社会の中で生きることを選ぶのである。かつて「許されない関係」の象徴であった演劇のモチーフを、女の子が自分を受け入れ社会の中で生きていく暗示に置き換えたのである。

 

4「百合」のど真ん中

・この物語が百合の関係性のなかで描かれたことによる効果

 「百合」の定義は難しいが、とりあえず女の子が二人以上いて何らかの感情をもっているというのが最大公約数の定義になるだろう。そもそも「百合」という言葉は『薔薇族』という雑誌の女性読者コーナー「百合族」に端を発し、薔薇族の対比として女性の女性に対する恋愛関係を指す言葉として次第に呼称されるに至ったというのが定説である。ところが、現在では性愛や恋愛関係に限定されない広い意味で使われている。

 燈子の侑の関係も物語の最初から「百合」であったはずだ。侑は「好き」が分からないことを悩んでいてその感情を燈子なら理解してくれるかもしれないと考えていた。侑には唯一の理解者に出会ったかもしれないという期待があった。物語の中盤はどうだろう。侑が燈子を「好き」になったのがいつかは明確には示されていない。次第に侑は燈子に惹かれていき、自分の本心を言葉で隠すようになる。どの時点においても二人は「百合」なのである。

 しかし、本作は、主人公小糸侑が燈子に明確に「好き」を告げ、それまでの過程を「恋」と言う物語なのである。

わたしの「好き」は自分で選ぶものだから

あなたを好きでいたいっていう

願いの言葉で意思の言葉だから (やがて君になる 8巻44話164頁)

 名前をつけないが、他の人間とは違う「侑と私」で囲われる特別。曖昧さが許される百合であえて恋愛を語ることによって、「好き」とは意思に基づく選択であるというテーマが明確に打ち出されたといえるのではないだろうか。

 

・やが君は百合を超えたのか?

 本作の累計発行部数は100万部超えており、多くの読者を獲得している。その中には当然、従来からの百合愛好家以外の者も多く含まれるだろう。なぜそのような読者にも本作が届くのか。それは本作がテーマを突き詰めたからである。

 本作は女の子同士の恋愛を描いたものでありまさしく「GLのど真ん中」であるが、それは同時に恋愛のど真ん中なのである。

 個々人の性的指向や恋愛指向、恋愛感情の有無に関わらず、多くの人間は恋愛とは無関係ではいられない。「好き」とは何かというテーマは人間に共通の命題である。やがて君になる は先まで述べてきた通り百合文化を色濃く承継している。承継しながらも、そのテーマを突き詰めることにより広い射程を得たのである。百合を超えたのではなく、百合を極限まで深めた作品であるといえるのではないだろうか。

 

5 まとめ

 これまで見てきた通り、「やがて君になる」は百合文化の伝統や形式を踏襲した上で、それらをキャラクター同士の関係性の論理や個性の次元にまで落とし込み再構成した。また「百合」という題材に対して「恋」を明言する主人公を配置することによって「好き」の意義を追求した。「好きとは何か?」という人類普遍のテーマを百合というパッケージを通して語ることに成功したのである。

 百合の伝統を継承しつつ現在の価値観に沿った形に再構成したという、その内容をもって2010年代を象徴する百合作品であると考えられる。また同時に、百合を突き詰めることが多くの人間の心を掴むことを証明した作品ともいえ、百合文化の一つの到達点といえるのではないだろうか。

 

(終)

 

この記事はやが君アドベントカレンダー2020の12月7日担当記事として書かれたものです。この機会がなければ一生書かずに終わっていたと思います。素晴らしい機会をくださったリリーさんに感謝申し上げます。締め切りを守ることと締め切りを設定することの大切さを学びました。

 

 

 

※参考文献

仲谷鳰やがて君になる』第1巻~第8巻 KADOKAWA

百合ナビ 百合総選挙第1回~第4回 

ユリイカ 2014年12月号 特集=百合文化の現在 藤本由香里「『百合』の来し方―『女どうしの愛』をマンガはどう描いてきたか?」

*1:仲谷鳰やがて君になる』第1巻~第8巻 KADOKAWA

*2:http://yurinavi.com/yurimanga-sosenkyo-4/

*3:ユリイカ 2014年12月号 特集=百合文化の現在 藤本由香里「『百合』の来し方―『女どうしの愛』をマンガはどう描いてきたか?」