浸透圧

本や映画の考察・感想・批評など

「やがて君になる」の悟らせ力

 

1 はじめに

 完結後二年が経過したにも関わらず、未だ多くの人を魅了してやまない「やがて君になる*1。作者仲谷鳰が8巻のあとがきで述べている通り、本作品は読者による感想や批評記事が多い(この記事もその一つである)。

 なぜ「やが君」に触れた者は、何かを語り出そうとするのか。本作品の何がここまで読者をつき動かすのか。それは、「悟らせ力」とも言うべき本作品の巧みな演出である。読者に疑問を提示し、必要なヒントを与え、その答えを考えさせる仕掛けが「やが君」全編にわたって張り巡らされている。

 そこで本稿では、具体例を挙げつつ①モチーフ ②各話タイトル ③絵による心情描写 の三つの観点から本作品の「悟らせ力」メカニズムを考察する。

(なお、この記事は「やが君」を一度通読したことを前提としており、以下ではネタバレもある。未読にも関わらず、なぜかここに辿りついてしまった人は読んでから戻ってきてほしい。また「やが君」上級者の人にとっては、既知の事実を再構築した内容になっているので、ご自身の頭の整理と思って読んでいただければと思う。)

⑴モチーフ

「やが君」の大きな特徴の一つは、画面に無駄なものが全くないということだろう。背景に登場する花、舞台設定、キャラクターへの光のあたりかた……画面を構成するものがすべて計算されており、意味をもつ。

ここでは、何度も登場するモチーフ『星』に焦点を当てる。「やが君」において『星』とは(小糸侑の)『好き』を意味する。

星の表現は作品中で背景やキャラの髪などでも頻出するが、ここでは1話「わたしは星に届かない」4話「まだ大気圏」22話「気がつけば息もできない」45話「船路」に絞って解説する。

 まず、1話のタイトルは「わたしは星に届かない」であるが、1話で侑は「好き」を持たない人物であることが描かれる。とすれば、侑の手が届かない『星』とは「好き」であることが分かる。

『星』=「好き」と読み替えると、各話の演出からモノローグや台詞になっていない侑の感情を以下のように読み取ることが可能になる。 

話数

ストーリー

タイトル・演出

読者側の合理的解釈

1

誰のことも好きにならない侑は、突然燈子に「好きなりそう」と言われる。

「わたしは星に届かない」

→侑が届かないもの「好き」=『星』

4

中学の同級生と遊びに行き、朱里の失恋を知る。燈子にプラネタリウムを貰う。こよみの言った「好きって言われ続ければその気になる」を反芻する侑。

プラネタリウム点灯。部屋に映る星に手を伸ばす。

→自分が「好き」を手に入れることを期待している。「好き」に手を伸ばそうとしている。

22

合宿帰りに侑の家に寄る燈子。自分が嫌いという燈子を変えたいと侑が決意する。

手に持ったプラネタリウムを覗きこむ侑。

→『星』=好きを手にのせ覗き込む。燈子に自分の「好き」を受け取って欲しいという願望があることを示唆。

45

44話から数年後。後輩の文化祭劇を見にいく燈侑。互いに「何になってもいい」と告げる。

侑は星を掴んで燈子に手を差しだす。手を繋いで歩いていく二人。

→『星』=好き を掴み取った。侑にとって好きは選択であり(40話参照)、燈子といることを選択して人生という船路を行く。

 上図の通り、「好き」を示す星を物語全体で使用し、星を侑がどう扱っているかによって、言葉にはなっていない侑の感情が分かるようになっているのだ。

驚くことに、45話では互いに「好き」などの好意を伝える言葉が台詞でもモノローグでも出てこない。代わりに、45話の終盤では侑が夜空の星に手を伸ばし、手元で掴んで確認してから、燈子に手を差し出すシーンが描かれている。ここまで「好き」の象徴として描かれていた星を掴むという演出によって、侑が完全に「好き」を手に入れたということを読者は理解する。「燈子、好きだよ」等のセリフにしてしまいがちな部分を、こうした演出によって読者に悟らせているのである。

 

⑵各話タイトル

 次に注目するのが各話タイトルの付け方だ。ある話が前回までの他の話と関連性がある場合、タイトルもシリーズのように付けられている。言い換えれば、関連性のあるタイトルを追っていくとその話で特に取り上げられているキャラクターの心情や話の流れがわかりやすくなっているのだ。

例えば、侑の心情に大きな動きのある話には星(=好き)に近づいていくことを思わせるタイトルがついている。

1話「わたしは星に届かない」→4話「まだ大気圏」→22話「気がつけば息もできない」→39話「光の中にいる」(→40話「わたしの好きな人」)

 

 また、侑と燈子が互いとの関係性に変化が生まれる話では、船や航海を連想させるタイトルが付けられている。

24話「灯台」→38話「針路」→41話「海図は白図」→45話「船路」

 最終話45話では区切りのない人生を共に進んで行くことを川下りや航海に例えるシーンがある。いまま通り抜けてきた「特別だったあの日・あの瞬間」を回想するとともに、そういった瞬間は星・灯台のように船路を導くものであるとモノローグで語られる。

今までの「好き」や自らの選択がその先の人生を導くものであることが示唆される。

 そして、今回特に注目したいのは、佐伯沙弥香に焦点があたる話についたタイトルである。火に関連するタイトルがついている。

ストーリー

読者の考えること

12話「種火」

沙弥香の過去。燈子に一目惚れするまでの経緯

燈子が好きという、小さな火=種火がついた。種火ということは、この火が次第に大きくなった・大きくなることを示唆している

21話「導火」

合宿。姉・澪を直接知る市ヶ谷さんに姉に似ていないと言われ動揺する燈子。姉の件を知っていることを燈子に話す沙弥香。燈子もそれを許容する。

姉のこと・燈子が姉になろうとしていることを沙弥香は知らないという不文律が終わる。距離が少し近づく。種火が導火した。

37話「灯す」

沙弥香、燈子に告白する。「私 あなたのことが好き」「あなたの恋人になりたい」

種火、導火ときて、ついに灯る。

沙弥香の「好き」が燈子へと灯火される。

 タイトルの流れから、小さな火種から灯火へと点火する様子が想起され、この一連のタイトルは沙弥香が燈子に自分の感情を吐露するまでのステップを示していると考えられる。では、なぜ「火」がモチーフとして使用されたのか。

 ここで注目したいのは、燈子の「燈」という字は、ともしび を意味する点だ。37話のタイトルが燈子にともしびを「灯した」のは沙弥香だということになる。ここでいう ともしび とは何を示すのか。それは37話で沙弥香から燈子へ渡された「好き」の感情である。37話「灯す」で沙弥香は燈子に告白するが、38話で燈子は沙弥香からの告白を穏やかな気持ちで受け止め、さらに自分の侑への気持ちを確認する。つまり、沙弥香の告白によって自分の「好き」を認識するのだ。沙弥香からの告白がなければ自分の侑への感情を見つめ直すことができず、「好き」が怖いままだったかもしれない。

 沙弥香に焦点の当たった話に「火」が使われたのは、沙弥香が燈子に「好き」を受け入れられるようにするきっかけを与えた人物だからである。言い換えれば、沙弥香は燈子が「好き」を受け入れるために必要な人間であったことが、タイトルで暗喩されているのではないだろうか。

 以上の話を演出という観点から捉え直してみよう。

演出

読者の考えること

読解できること

「火」のモチーフを使用する

→なぜ「火」なのか

燈子の「燈」はともしび という意味。

⇨沙弥香が燈子に「好き」という火を灯した。

沙弥香が燈子に「好き」を受け入れられるようにするきっかけを与えた。

▶︎沙弥香の物語上での役割や重要性を示唆している

 

沙弥香の好意が大きくなり、燈子へと伝わる様子を関連性のあるタイトルで示す

→種火・導火・灯す

いずれも沙弥香の燈子に対する感情が描写されている。

沙弥香が37話で「灯した」のは「好き」という感情

 タイトルの表現に繋がりを持たせることで、読者に関連性を見出させる。また、モチーフを使用して読者に疑問を持たせる。タイトル一つをとっても読者を世界へと引き込む「悟らせ力」が働いていることが分かる。

 

⑶絵による心情描写(本当のことを言わないモノローグ・本当のことを言う絵)

 「やが君」で心情描写の巧さが一番光るのは、実は中盤ではないだろうか。「好きになってはいけない」という命題のもと、侑はモノローグや台詞で段々と本当の心情を言葉にしなくなっていく。なぜ「本当の心情」が分かるかといえば、それは作中の絵や扉絵によって心理が描かれているからである。ここでは、例として18話「号砲は聞こえない」を挙げる。

 この演出と読者の合理的解釈を図示すると以下のようになる。

演出

読者の考えること

読解できること

タイトル「号砲は聞こえない」

→何の号砲か 体育祭関係?

⇨侑は燈子を好きになっているが、侑はそれに気づかないふりをしている。

扉絵 誰かの手が侑の手で侑の耳を塞いでいる

→侑の耳を塞いでいるのは誰だろう

152頁「パアン」 リレー開始の号砲 

→リレーの号砲は聞こえている

燈子の走る姿に集中している侑

→燈子しか見えなくなっている

侑のモノローグ「心臓の音がする」「…わたしのじゃないな 先輩の音だ」「だってこれじゃ」「速すぎるから」

侑は切ない表情の侑

→侑の表情から、聞こえた心臓の音は侑のものだと分かる。

侑は自分の心臓の音が聞こえないことにしている

→なぜか

→燈子は「好き」を持たない侑を好きになったので、侑は燈子を好きになってはいけないから

▶︎つまり「号砲」は侑の恋の開始号砲である。

号砲は鳴ったが、聞こえないことにしている。

扉絵の侑の手を掴む手は燈子であり、扉絵は燈子との約束のため「好き」が聞こえないふりをする侑を示している。

 読者が読み取る部分を全てセリフやモノローグにするとどうなるだろう。

「リレーの時、先輩のことしか見てなかった」「わたし、先輩のことが好きなのかな」「でも好きになっちゃいけないんだ。だって先輩はそれを望んでいないから」「わたしは自分の感情を知らないことにしなきゃいけない」……etc このように描かれていれば読者には分かりやすいかもしれないが、説明じみており、読者は作品をただ受け取るだけになってしまう。

 ところが、「やが君」はこうしてモノローグとは裏腹の感情を演出や絵で語ることによって読者に読み取る余地を与えているのだ。言い換えれば、読者はただの受け取り手に終始することができず、読解する者へと誘引される。

 扉絵やタイトルで問いを提示し、ヒントをできるだけ散りばめて、一番大事な答えは読者の読解によって明らかになる仕掛けになっている。ここにも「やが君」の悟らせ力が働いているといえるだろう。

 

3 まとめ

 二人の少女の恋愛漫画としても素直に面白い物語ではあるが、こうして演出を紐解いた先にある答えを探る楽しさが「やが君」特有の価値なのではないだろうか。

 言葉にしてしまえば簡単に説明できる感情やストーリーラインを、あえてセリフやモノローグにせず、絵や言葉の象徴表現にする。一見しただけでは分からない表現を読者は分かろうとして咀嚼し消化し吸収する。この作者と読者の共犯関係ともいうべき、双方の作用によって「やがて君になる」の面白さは成立している

 言い換えれば、「やが君」は読者に行間を補完する主体性を要求するのだ。完結後二年が経っても多くの人を魅了してやまないのは、本を開くとそこに読解を待っている物語が存在するからではないだろうか。 

*1:仲谷鳰著『やがて君になる』第1巻ないし第8巻 株式会社KADOKAWA2015〜2019(以下、「やが君」と表記。また作品名の表示なく巻数・頁数・話数を記載したものは全て本作品を示す)

2010年代百合のひとつの到達点「やがて君になる」  

1 はじめに

 2015年連載開始、2019年に全8巻で完結し累計発行部数が100万部を超えた『やがて君になる*1。2017年から開催された百合ナビによる百合総選挙*2では四年連続1位となり、その人気の高さから2010年代後半の百合を代表する作品であると言って過言ではないだろう。だが、売上や人気のみならずその描いた内容からも‘10年代百合の一つの到達点であるということができると思う。なぜそう考えるかについて以下論じる。

 

 

 

2緊張感・秘密性の再構築

  • 恋愛と禁忌

 多くの芸術作品、とりわけ恋愛物は「禁忌」を主題とする。ここでいう禁忌とは法律や道徳といった社会的規範に反する行為をいう。禁忌・タブーの要素を持つ恋愛作品は、そうでない場合と比べて以下の二点の特殊性を有する。

・「タブー」を犯すそのものへの後ろめたさ、ドキドキ感(緊張感)

・「タブー」であるため、二人の関係を秘密にしなければならない(秘匿性)

 

 例えば、不倫関係にある恋愛は古今東西の作品の主題となってきた。不倫関係は婚姻関係を保護する法律やそれに基づいて形成されている“既婚者は他の者と性的関係をもってはならない”という道徳・社会観念に反する行為である。いけないことであるにも関わらず(不倫)相手を愛するという思いの強さや他者を裏切ることへの後ろめたさがある(緊張感)。また、不倫であるがゆえに誰にも話せない(秘匿性)ところに発生する苦しみが読者の心をゆさぶる。もし、現実の社会が婚姻関係にある者と第三者との恋愛関係を一般的に許容する文化であればどうだろう。その文化圏における配偶者の一方の恋愛は、婚姻関係にある場合とない場合で変わりはなく、秘密にする必要性がないはずだ。禁忌を犯す恋愛には、物語を盛り上げ読者の関心を引き付ける緊張感と秘匿性があるといえると思う。

 そして、近年まで同性同士の恋愛も宗教的又は文化的背景から、社会的規範に反するものとされていた。同性間の恋愛関係は一種のタブーであり、それ故に相手を思う愛の強さを強調したり(緊張感)、家族や友人に話せない苦悩、世界から隔絶された「二人だけ」を演出する(秘密性)文脈で描かれてきた。社会に受け入れられない同性との関係をあえて選ぶと言う点に緊張感と秘匿性を見出していたのである。

 

  • もはやタブーではない時代に

もっとも、同性同士の恋愛関係はLGBTQをはじめとするセクシャルマイノリティへの理解が深まると同時に社会的なタブーとはいえなくなった。依然として社会構造による差別は存在しているものの、同性同士の関係性が禁忌であるという観念は少なくとも2010年代の人権思想に適合しない。

やがて君になる」にも、同性愛が社会的規範に反するものであるという前提はない。「女性同士だから」燈子と侑の関係が秘密であったり悩んだりするという描かれ方をしていないのだ。それにも関わらず、(アニメ「やがて君になる」のキャッチコピー「誰にも言えない、ふたりの特別」に象徴されるように、)今までのゲイロマンスに存在した緊張感と秘密性が作品全体に存在するのである。なぜか。それはちょうど社会規範に代替するかのような形で侑と燈子の関係性と約束の論理が存在するからだ。

 燈子は「好き」が怖いので、侑に自分を好きにならないでほしい。侑は燈子を好きにならないと約束するが、本心では燈子を好きになりたいと望んでいる。この燈子と侑の約束が維持されるor破綻する という仕掛けにより緊張感がうまれている。

 また、燈子は表向きは「完璧な生徒会長」であるが、自身では臆病な「ただの燈子」であると考えている。燈子が他人に隠す部分や甘えたなところを優しい侑は他人に言えない。燈子が多くの秘密を抱え、それを侑にだけ吐露し、侑がそれを受け入れたから、燈子と侑の関係は秘密なのだ。つまり、二人の人格とそれに起因する関係性が秘密性を生み出したのである。

 社会規範とそれを裏切るという行為を、個々人の関係性と約束の違背という形に換骨奪胎し、新しい時代に合わせて再構築したということができるのではないだろうか。

 

3「百合」的な記号の踏襲

 女同士の愛が少女漫画で描かれ始めたのは七十年代初めのである。藤本由香里*3はこの頃の百合作品には以下のような典型的なパターンがあったと述べる。

1対照的な二人の容姿。美人でかっこよく、くっきりした性格のタイプと、いかにもあどけない女の子女の子したタイプの組み合わせ。(中略) 2かなり多くの場合、作中に演劇のシーンが入る。とくに『ロミオとジュリエット』が多い。これは周囲から“許されない愛”という暗示もあるだろうが、演劇モチーフが多いのはおそらく「女どうし」ということで「宝塚」がそのイメージの基底をなしているせいだと考えられる。3.悲劇が多い。(後略) 

 

 

 このパターンはジェンダー観や社会情勢の推移とともに変化していくが、百合作品において、こういった対象的な主人公・演劇のモチーフは繰り返し登場している。

例えば1995年に放映された『少女革命ウテナ』はウテナとアンシーは肌や髪の色だけではなくその性格についてもさっぱりしていて「王子様」を目指すウテナと何を考えているかよく分からないようにみえ「花嫁」と呼ばれるアンシーという対照性を有している。また劇中で演劇をするシーンはないものの、作品全体が演劇に使用される演出や舞台装置に満ちている。

  2006年から連載開始、2013年に完結した志村貴子青い花』では黒髪ストレートの万城目ふみと背の低くて可愛らしいタイプの奥平あきらの恋愛模様が描かれるが、あきらは演劇部に所属し、あきらや友人に付き合う形で演劇に参加することになる。また作品の後半では

ふみのパーソナリティが反映された劇がつくられ、ふみの心情とオーバーラップする形になっている。

 この二例だけをもって断言することはできないが、百合文化には人物の対称性と演劇の要素があり、それは各時代の作品に形を変えて受け継がれているといえるのではないだろうか。

なにが言いたいかというと、「やがて君になる」は実はこういった原初の百合・GLの要素を多く踏襲しているということである。

1‘燈子は黒髪ストレートの美人で文武両道のかっこいい生徒会長である一方、侑はまだあどけなさの残るかわいらしい外見をしている。もっとも、内面について言えば侑が大抵のことには動じないしっかりした性格をしているのに対して、燈子は自信がなく甘えん坊である。二人は外見・中身ともに対照的であると言える。

2‘本作品においても生徒会劇という形で演劇が登場する。生徒会劇の成功は物語の重要な一つの局面となる。 燈子の姉・澪がやり残したことがアイドル活動でもなく麻雀やソフトボールでもなかったのは、こうした文脈に一因があると考えることができる。

 

 こういった伝統的とも言える百合の記号を使用する一方で、やが君が革新的なのは、七海燈子という個人の抱える問題を生徒会劇を通してときほぐし、これからの七海燈子を暗示する装置にした点にある。劇中劇には主人公の少女の恋人役も登場し当初はその恋人の求めた「自分」を正解とする結末であったが、侑とこよみの画策により周囲の人間の話した「自分」をすべて受け入れ新たに関係を構築するという結末に変更される。閉じられた恋愛関係だけに帰着することなく、家族や友人といった社会の中で生きることを選ぶのである。かつて「許されない関係」の象徴であった演劇のモチーフを、女の子が自分を受け入れ社会の中で生きていく暗示に置き換えたのである。

 

4「百合」のど真ん中

・この物語が百合の関係性のなかで描かれたことによる効果

 「百合」の定義は難しいが、とりあえず女の子が二人以上いて何らかの感情をもっているというのが最大公約数の定義になるだろう。そもそも「百合」という言葉は『薔薇族』という雑誌の女性読者コーナー「百合族」に端を発し、薔薇族の対比として女性の女性に対する恋愛関係を指す言葉として次第に呼称されるに至ったというのが定説である。ところが、現在では性愛や恋愛関係に限定されない広い意味で使われている。

 燈子の侑の関係も物語の最初から「百合」であったはずだ。侑は「好き」が分からないことを悩んでいてその感情を燈子なら理解してくれるかもしれないと考えていた。侑には唯一の理解者に出会ったかもしれないという期待があった。物語の中盤はどうだろう。侑が燈子を「好き」になったのがいつかは明確には示されていない。次第に侑は燈子に惹かれていき、自分の本心を言葉で隠すようになる。どの時点においても二人は「百合」なのである。

 しかし、本作は、主人公小糸侑が燈子に明確に「好き」を告げ、それまでの過程を「恋」と言う物語なのである。

わたしの「好き」は自分で選ぶものだから

あなたを好きでいたいっていう

願いの言葉で意思の言葉だから (やがて君になる 8巻44話164頁)

 名前をつけないが、他の人間とは違う「侑と私」で囲われる特別。曖昧さが許される百合であえて恋愛を語ることによって、「好き」とは意思に基づく選択であるというテーマが明確に打ち出されたといえるのではないだろうか。

 

・やが君は百合を超えたのか?

 本作の累計発行部数は100万部超えており、多くの読者を獲得している。その中には当然、従来からの百合愛好家以外の者も多く含まれるだろう。なぜそのような読者にも本作が届くのか。それは本作がテーマを突き詰めたからである。

 本作は女の子同士の恋愛を描いたものでありまさしく「GLのど真ん中」であるが、それは同時に恋愛のど真ん中なのである。

 個々人の性的指向や恋愛指向、恋愛感情の有無に関わらず、多くの人間は恋愛とは無関係ではいられない。「好き」とは何かというテーマは人間に共通の命題である。やがて君になる は先まで述べてきた通り百合文化を色濃く承継している。承継しながらも、そのテーマを突き詰めることにより広い射程を得たのである。百合を超えたのではなく、百合を極限まで深めた作品であるといえるのではないだろうか。

 

5 まとめ

 これまで見てきた通り、「やがて君になる」は百合文化の伝統や形式を踏襲した上で、それらをキャラクター同士の関係性の論理や個性の次元にまで落とし込み再構成した。また「百合」という題材に対して「恋」を明言する主人公を配置することによって「好き」の意義を追求した。「好きとは何か?」という人類普遍のテーマを百合というパッケージを通して語ることに成功したのである。

 百合の伝統を継承しつつ現在の価値観に沿った形に再構成したという、その内容をもって2010年代を象徴する百合作品であると考えられる。また同時に、百合を突き詰めることが多くの人間の心を掴むことを証明した作品ともいえ、百合文化の一つの到達点といえるのではないだろうか。

 

(終)

 

この記事はやが君アドベントカレンダー2020の12月7日担当記事として書かれたものです。この機会がなければ一生書かずに終わっていたと思います。素晴らしい機会をくださったリリーさんに感謝申し上げます。締め切りを守ることと締め切りを設定することの大切さを学びました。

 

 

 

※参考文献

仲谷鳰やがて君になる』第1巻~第8巻 KADOKAWA

百合ナビ 百合総選挙第1回~第4回 

ユリイカ 2014年12月号 特集=百合文化の現在 藤本由香里「『百合』の来し方―『女どうしの愛』をマンガはどう描いてきたか?」

*1:仲谷鳰やがて君になる』第1巻~第8巻 KADOKAWA

*2:http://yurinavi.com/yurimanga-sosenkyo-4/

*3:ユリイカ 2014年12月号 特集=百合文化の現在 藤本由香里「『百合』の来し方―『女どうしの愛』をマンガはどう描いてきたか?」

「やがて君になる」ってどういう意味?

 『やがて君になる』が大好きだ。すでに少なくとも数十回は読んでいるのだが、本誌で45話を読み終えた瞬間から人生をかけて読むことが決定したので、生きている限りこの先も数百回・数千回と読むことになると思う。

 この漫画がいかに素晴らしく美しい物語で、私にとってどのくらい価値があるかについては別の機会に語ることにして、今回はこの一見難解にも思えるタイトルの示す意味について語りたい。なお、以下で括弧書きに書籍名なく記載するものはすべて仲谷鳰著『やがて君になる』第1巻~第8巻(2015~2019 KADOKAWA)からの引用である。

 この物語を読む途中で思いつくのは、七海燈子が、姉になろうとして得た文武両道・人気者であるといった側面を自分であると認識できるようになり、全45話で「ついに燈子になった」という解釈だろう。もちろん、「(本当の)自分とは何か」という部分もやが君の内包するものあり、この読み方もあると思う。ただ、筆者としては、作品全体を包括するテーマが「やがて君になる」に凝縮されていると考えている。そこで①本作品のテーマ ②「君」の指し示す人物 ③「やがて〜になる」という表現 という三点について思うところを述べた上で、「やがて君になる」の意味について私見を紹介する。

 

1  本作品のテーマ 「好き」とは何か。恋愛感情とは何か。「好き」は相手の人格の束縛か。

 なぜこれがテーマであると言えるか。それはこの物語が、好きを知らない主人公の小糸侑が選択を重ね自分の歩いてきた過程を「恋」と言うものだからである。

 また、「『好き』は束縛の言葉」(前掲2巻十話)であると考え好きを恐れていた七海燈子が、侑や佐伯沙弥香との交流を通じて「好き」を受け入れる物語だからである。

 主人公とヒロインの恋愛を通して「好き」とは何かを問うているのである。そして、テーマに対する答えを侑と燈子はそれぞれ提示する。


・侑の変化と「好き」

でもわたしの「好き」はたぶんそうじゃなくて

自分で選んで手を伸ばすものだったよ(8巻25頁)

 わたしは 先輩がわたしの特別だって決めました(第8巻 27頁)

すなわち、侑にとって「好き」とは、燈子の側にいたいという意思とそれに基づく選択の連続であり、その断続的な選択の過程のことなのである。当初、好きが分からず、それを知った燈子を「ずるい」(1巻100頁)とまで言った侑は、40話でついに「好き」を知覚し理解したのである。


・燈子の変化と好き

「侑好きだよ」

これは束縛する言葉

「君はそのままでいてね」

どうか侑 私を好きにならないで

(第2巻 172頁)

 2巻十話から分かる通り、燈子は社会から承認されたのは「澪」を演じ始めた後であり、自分への「好き」はすべて演じた「澪」に対する言葉であると考えている。燈子にとって「好き」は束縛の言葉であり、自分に「七海澪」でいろという強い固定化の要求だった。その燈子が、侑にその努力の部分も燈子自身のものであると言われ、自覚するようになる。

 そして、沙弥香に「好き」は信頼の言葉つまり、ある程度のまとまりを有する人格への信用であると言われ、侑に「好き」でいてほしいと望むのである。

「『好き』って『そのままのあなたでいて』って縛る言葉じゃなかったんだ」

「変わってよかったんだ」

(第8巻 16頁)

 自分を「好き」にならないという人格をもつ侑でいて欲しいという望みから、自分を好きになった今の侑でいて欲しいという望みをもつようになる。つまり、燈子の体験を通して、「好き」は人格の束縛ではなく、人格の変化を受け入れることであることが示される。

 

侑:「好き」を持たない→「好き」を認識するようになる。

燈子:(侑の)「好き」を拒絶する→「好き」を肯定、望むようになる。

という二人の変化が描かれたといえる。

 

 また、もちろん冒頭に述べた通り、燈子について言えば、澪を演じるために得たと考えていた性格(文武両道、人当たりがいい等)も、自分の一部であると受け入れられるようになったところも大きな変化と言えるだろう。

 「好き」が分からず、分かることを望んだ侑と、好きが怖かった燈子は、交流を得てそれぞれ 新しい燈子 と 新しい侑 になったのである。

 ここまでの話をまとめると、この作品は「ついに わたし/私 に なった」ことが描かれる物語なのである

 

 

 

2.「君」の指し示す人物

 やがて「君」になる 「君」とは誰を指すのか。筆者は燈子と侑の二人のことであると思う。なぜそう考えるのか、作品中で「君」と言われた人物に注目したい。

・「君」=燈子

 この作品における大きなキーの一つはやはり文化祭の劇中劇だろう。心理的に燈子と似た境遇の主人公を通して、燈子は自分の「自己」への認識を大きく変えることになる。この劇中劇のタイトルは「君しか知らない」であり、これは侑が考案したタイトルである。

「先輩しか知らない」

「お姉さんじゃなくて 先輩に向けた 気持ちです」

(第5巻 161頁)

つまり、ここでの「君」とは七海燈子であり、作品内において燈子は「君」と呼ばれていることになる。


・「君」=侑

 作品中、七海燈子はところどころで侑を「君」と呼んでいる。

「今日手伝いに来てくれる一年生って君でしょ?」(1巻12頁)

「君もそのままをちゃんと伝えればいい」(1巻37頁)

「君はそのままでいいんだよ」(1巻38頁)

「だって私 君のこと好きになりそう」(1巻46頁)

「君といるとどきどきするの こんな気持ち誰にもなったことなかったのに」(1巻78頁)

「君はいつも私を許してくれるね」(1巻159頁)

「君ってほんと」(2巻21頁)

「私は君じゃなきゃやだけど 君はそうじゃないから」(2巻114頁)

「君の前でただの私に戻るのは居心地がいいけど」(2巻 156頁)

「君はそのままでいてね」(2巻 166,172頁)

 「君はそのままでいてね」とは「好き」によって人格の固定化を望み、変化を拒絶する燈子の思いである。「やがて君になる」が相手の変化の受容、肯定であるとすれば、「君はそのままでいてね」はまさしく対義語なのである。「君はそのままでいてね」の「君」が侑を指す以上、「やがて君になる」の「君」もまた小糸侑を指すと考えていいだろう。

(この部分は余談だが……小糸侑という名前は「恋と言う」から来ていると考えられるが、「恋とYOU」と考えることもできる。2巻以降では燈子は侑を「君」と呼んでいない。それは、最恵国待遇条件付き不平等不可侵条約の締結を経て、侑を代名詞「君」で呼ぶのが不自然になるくらい燈子にとって侑が近く特別な存在になったと考えるのが通常の解釈である。が、3巻以降で燈子が「侑」と呼びはじめたことから「君」の代わりに「You」と読んでいると解釈することも可能である。)

・二人称である「君」

 「君」という代名詞はいかなる状況下で成立するか。それはある特定の二人がいて、ある一人が他方を呼ぶときである。

「君」とは側にいて相手をよぶ二人称である。一人では「君」は成立せず、また誰かが相手を認識し呼ばなければ「君」は成立しない。

 変わっていって新しい「私/わたし」になる相手を側にいて「君」と呼び続ける。側にいるという選択を続ける。タイトルが「私/わたし」ではなく「君」なのは、一方の変化を他方が受容し、側にいることを選択するという意味が込められているように思う。

 


3.未来を指し示す「やがて〜になる」

 もし45話で侑が新しい侑になり、燈子が新しい燈子なったことをもって終結とするならば、その状態を示す言葉は「ついに 君 に なった」になるはずである。

 だが、本作品のタイトルは「やがて君になる」なのである。

「やがて」:おっつけ。まもなく。ほどなく。そのうちに。今に。

広辞苑第6版より)

 

 「やがて」というのは、現在からみて未来を指し示す言葉である。1話から44話までを見通したとき、二人は常に「やがて侑/燈子になる」存在だったのであり、それぞれの視点からみてお互いが「やがて君になる」存在なのである。

特別だったあの日もあの瞬間も今はずっと後ろにある (8巻 188頁)


 45話では44話から数年経った様子が描写されている。大切なことをたくさん話した河川敷ももはやお風呂の洗剤という日常のことを話すものになる。44話のあとも二人はさらに新しい自分になり続け、お互いがそれを見つめて受容してきたことが示された。

 物語は、星や街灯に照らされて二人が手をとり歩く姿で終わる。45話のあともずっと二人は変わり続け、それを受容するだろう。物語は終わっても二人は互いにとって「やがて君になる」存在なのだ。


やがて君になる」とは、過去・現在そして45話の後という将来においても変化を続け「わたし/私」になる侑と燈子が、相手の変化を受け入れて「君」と呼び続ける という二人の船路であり、まさしく、それは「好き」の意味するものなのだ。

 

はじめに

 このブログは私が読んだ本、見た映画の感想・批評を述べるものです。それに伴って作品内のメタファーの読解・考察をすることがあり、ネタバレを含むことが予測されます。そのため、ネタバレが嫌な方は、是非該当作品を読んでからこちらに戻っていただけますと嬉しく思います。

 ここでの感想や批評はただのオタクが自分の意見を述べるものであり、「これが正しい」という主張ではありません。作品に触れる、又は作品を深めるきっかけにして頂けると幸いです。また、当ブログへのご感想、ご意見がありましたら、是非お知らせください。こちらのコメントでも、Twitter(@mashiroshirosuk)でも結構です。

 作品とは作者と受け取り手によって完成する一種の現象であると私は考えています。作者の提示したものに受け取り手が意味を付与し解釈することによって、作品は膨らみと広がりをみせるものと思います。自分なりの解釈を発信して、一人でも多くの方にその作品や読み方を知ってもらい、その読者がそれぞれに独自の意味と解釈を獲得することで、好きな作品の世界を広く深くしていきたい。そんな野心があります。

 水と濃度の異なる溶液が半透膜(水分子は通すが、水に溶けている分子は通さない膜)を介して隣り合うとき、濃度を一定にしようとして、水分子だけが半透膜を透過して分散することを浸透といいます。このとき浸透を受ける側の溶液に加わる力が浸透圧です。きゅうりを塩漬けすると水がでてくるあの現象のことです。

 私という半透膜の内側に作品という別の要素が入ってきて、変わっていく。その力や過程を残しておきたくて、このブログをはじめました。願わくば、ここに書かれるものが、また誰かの一部になりますように。