「やがて君になる」の悟らせ力
1 はじめに
完結後二年が経過したにも関わらず、未だ多くの人を魅了してやまない「やがて君になる」*1。作者仲谷鳰が8巻のあとがきで述べている通り、本作品は読者による感想や批評記事が多い(この記事もその一つである)。
なぜ「やが君」に触れた者は、何かを語り出そうとするのか。本作品の何がここまで読者をつき動かすのか。それは、「悟らせ力」とも言うべき本作品の巧みな演出である。読者に疑問を提示し、必要なヒントを与え、その答えを考えさせる仕掛けが「やが君」全編にわたって張り巡らされている。
そこで本稿では、具体例を挙げつつ①モチーフ ②各話タイトル ③絵による心情描写 の三つの観点から本作品の「悟らせ力」メカニズムを考察する。
(なお、この記事は「やが君」を一度通読したことを前提としており、以下ではネタバレもある。未読にも関わらず、なぜかここに辿りついてしまった人は読んでから戻ってきてほしい。また「やが君」上級者の人にとっては、既知の事実を再構築した内容になっているので、ご自身の頭の整理と思って読んでいただければと思う。)
2
⑴モチーフ
「やが君」の大きな特徴の一つは、画面に無駄なものが全くないということだろう。背景に登場する花、舞台設定、キャラクターへの光のあたりかた……画面を構成するものがすべて計算されており、意味をもつ。
ここでは、何度も登場するモチーフ『星』に焦点を当てる。「やが君」において『星』とは(小糸侑の)『好き』を意味する。
星の表現は作品中で背景やキャラの髪などでも頻出するが、ここでは1話「わたしは星に届かない」4話「まだ大気圏」22話「気がつけば息もできない」45話「船路」に絞って解説する。
まず、1話のタイトルは「わたしは星に届かない」であるが、1話で侑は「好き」を持たない人物であることが描かれる。とすれば、侑の手が届かない『星』とは「好き」であることが分かる。
『星』=「好き」と読み替えると、各話の演出からモノローグや台詞になっていない侑の感情を以下のように読み取ることが可能になる。
話数 |
ストーリー |
タイトル・演出 |
読者側の合理的解釈 |
1 |
誰のことも好きにならない侑は、突然燈子に「好きなりそう」と言われる。 |
「わたしは星に届かない」 |
→侑が届かないもの「好き」=『星』 |
4 |
中学の同級生と遊びに行き、朱里の失恋を知る。燈子にプラネタリウムを貰う。こよみの言った「好きって言われ続ければその気になる」を反芻する侑。 |
プラネタリウム点灯。部屋に映る星に手を伸ばす。 |
→自分が「好き」を手に入れることを期待している。「好き」に手を伸ばそうとしている。 |
22 |
合宿帰りに侑の家に寄る燈子。自分が嫌いという燈子を変えたいと侑が決意する。 |
手に持ったプラネタリウムを覗きこむ侑。 |
→『星』=好きを手にのせ覗き込む。燈子に自分の「好き」を受け取って欲しいという願望があることを示唆。 |
45 |
44話から数年後。後輩の文化祭劇を見にいく燈侑。互いに「何になってもいい」と告げる。 |
侑は星を掴んで燈子に手を差しだす。手を繋いで歩いていく二人。 |
→『星』=好き を掴み取った。侑にとって好きは選択であり(40話参照)、燈子といることを選択して人生という船路を行く。 |
上図の通り、「好き」を示す星を物語全体で使用し、星を侑がどう扱っているかによって、言葉にはなっていない侑の感情が分かるようになっているのだ。
驚くことに、45話では互いに「好き」などの好意を伝える言葉が台詞でもモノローグでも出てこない。代わりに、45話の終盤では侑が夜空の星に手を伸ばし、手元で掴んで確認してから、燈子に手を差し出すシーンが描かれている。ここまで「好き」の象徴として描かれていた星を掴むという演出によって、侑が完全に「好き」を手に入れたということを読者は理解する。「燈子、好きだよ」等のセリフにしてしまいがちな部分を、こうした演出によって読者に悟らせているのである。
⑵各話タイトル
次に注目するのが各話タイトルの付け方だ。ある話が前回までの他の話と関連性がある場合、タイトルもシリーズのように付けられている。言い換えれば、関連性のあるタイトルを追っていくとその話で特に取り上げられているキャラクターの心情や話の流れがわかりやすくなっているのだ。
例えば、侑の心情に大きな動きのある話には星(=好き)に近づいていくことを思わせるタイトルがついている。
1話「わたしは星に届かない」→4話「まだ大気圏」→22話「気がつけば息もできない」→39話「光の中にいる」(→40話「わたしの好きな人」)
また、侑と燈子が互いとの関係性に変化が生まれる話では、船や航海を連想させるタイトルが付けられている。
24話「灯台」→38話「針路」→41話「海図は白図」→45話「船路」
最終話45話では区切りのない人生を共に進んで行くことを川下りや航海に例えるシーンがある。いまま通り抜けてきた「特別だったあの日・あの瞬間」を回想するとともに、そういった瞬間は星・灯台のように船路を導くものであるとモノローグで語られる。
今までの「好き」や自らの選択がその先の人生を導くものであることが示唆される。
そして、今回特に注目したいのは、佐伯沙弥香に焦点があたる話についたタイトルである。火に関連するタイトルがついている。
話 |
ストーリー |
読者の考えること |
12話「種火」 |
沙弥香の過去。燈子に一目惚れするまでの経緯 |
燈子が好きという、小さな火=種火がついた。種火ということは、この火が次第に大きくなった・大きくなることを示唆している |
21話「導火」 |
合宿。姉・澪を直接知る市ヶ谷さんに姉に似ていないと言われ動揺する燈子。姉の件を知っていることを燈子に話す沙弥香。燈子もそれを許容する。 |
姉のこと・燈子が姉になろうとしていることを沙弥香は知らないという不文律が終わる。距離が少し近づく。種火が導火した。 |
37話「灯す」 |
沙弥香、燈子に告白する。「私 あなたのことが好き」「あなたの恋人になりたい」 |
種火、導火ときて、ついに灯る。 沙弥香の「好き」が燈子へと灯火される。 |
タイトルの流れから、小さな火種から灯火へと点火する様子が想起され、この一連のタイトルは沙弥香が燈子に自分の感情を吐露するまでのステップを示していると考えられる。では、なぜ「火」がモチーフとして使用されたのか。
ここで注目したいのは、燈子の「燈」という字は、ともしび を意味する点だ。37話のタイトルが燈子にともしびを「灯した」のは沙弥香だということになる。ここでいう ともしび とは何を示すのか。それは37話で沙弥香から燈子へ渡された「好き」の感情である。37話「灯す」で沙弥香は燈子に告白するが、38話で燈子は沙弥香からの告白を穏やかな気持ちで受け止め、さらに自分の侑への気持ちを確認する。つまり、沙弥香の告白によって自分の「好き」を認識するのだ。沙弥香からの告白がなければ自分の侑への感情を見つめ直すことができず、「好き」が怖いままだったかもしれない。
沙弥香に焦点の当たった話に「火」が使われたのは、沙弥香が燈子に「好き」を受け入れられるようにするきっかけを与えた人物だからである。言い換えれば、沙弥香は燈子が「好き」を受け入れるために必要な人間であったことが、タイトルで暗喩されているのではないだろうか。
以上の話を演出という観点から捉え直してみよう。
演出 |
読者の考えること |
読解できること |
「火」のモチーフを使用する |
→なぜ「火」なのか 燈子の「燈」はともしび という意味。 |
⇨沙弥香が燈子に「好き」という火を灯した。 沙弥香が燈子に「好き」を受け入れられるようにするきっかけを与えた。 ▶︎沙弥香の物語上での役割や重要性を示唆している。
|
沙弥香の好意が大きくなり、燈子へと伝わる様子を関連性のあるタイトルで示す |
→種火・導火・灯す いずれも沙弥香の燈子に対する感情が描写されている。 沙弥香が37話で「灯した」のは「好き」という感情 |
タイトルの表現に繋がりを持たせることで、読者に関連性を見出させる。また、モチーフを使用して読者に疑問を持たせる。タイトル一つをとっても読者を世界へと引き込む「悟らせ力」が働いていることが分かる。
⑶絵による心情描写(本当のことを言わないモノローグ・本当のことを言う絵)
「やが君」で心情描写の巧さが一番光るのは、実は中盤ではないだろうか。「好きになってはいけない」という命題のもと、侑はモノローグや台詞で段々と本当の心情を言葉にしなくなっていく。なぜ「本当の心情」が分かるかといえば、それは作中の絵や扉絵によって心理が描かれているからである。ここでは、例として18話「号砲は聞こえない」を挙げる。
この演出と読者の合理的解釈を図示すると以下のようになる。
演出 |
読者の考えること |
読解できること |
タイトル「号砲は聞こえない」 |
→何の号砲か 体育祭関係? |
⇨侑は燈子を好きになっているが、侑はそれに気づかないふりをしている。 |
扉絵 誰かの手が侑の手で侑の耳を塞いでいる |
→侑の耳を塞いでいるのは誰だろう |
|
152頁「パアン」 リレー開始の号砲 |
→リレーの号砲は聞こえている |
|
燈子の走る姿に集中している侑 |
→燈子しか見えなくなっている |
|
侑のモノローグ「心臓の音がする」「…わたしのじゃないな 先輩の音だ」「だってこれじゃ」「速すぎるから」 侑は切ない表情の侑 |
→侑の表情から、聞こえた心臓の音は侑のものだと分かる。 侑は自分の心臓の音が聞こえないことにしている →なぜか →燈子は「好き」を持たない侑を好きになったので、侑は燈子を好きになってはいけないから ▶︎つまり「号砲」は侑の恋の開始号砲である。 号砲は鳴ったが、聞こえないことにしている。 扉絵の侑の手を掴む手は燈子であり、扉絵は燈子との約束のため「好き」が聞こえないふりをする侑を示している。 |
読者が読み取る部分を全てセリフやモノローグにするとどうなるだろう。
「リレーの時、先輩のことしか見てなかった」「わたし、先輩のことが好きなのかな」「でも好きになっちゃいけないんだ。だって先輩はそれを望んでいないから」「わたしは自分の感情を知らないことにしなきゃいけない」……etc このように描かれていれば読者には分かりやすいかもしれないが、説明じみており、読者は作品をただ受け取るだけになってしまう。
ところが、「やが君」はこうしてモノローグとは裏腹の感情を演出や絵で語ることによって読者に読み取る余地を与えているのだ。言い換えれば、読者はただの受け取り手に終始することができず、読解する者へと誘引される。
扉絵やタイトルで問いを提示し、ヒントをできるだけ散りばめて、一番大事な答えは読者の読解によって明らかになる仕掛けになっている。ここにも「やが君」の悟らせ力が働いているといえるだろう。
3 まとめ
二人の少女の恋愛漫画としても素直に面白い物語ではあるが、こうして演出を紐解いた先にある答えを探る楽しさが「やが君」特有の価値なのではないだろうか。
言葉にしてしまえば簡単に説明できる感情やストーリーラインを、あえてセリフやモノローグにせず、絵や言葉の象徴表現にする。一見しただけでは分からない表現を読者は分かろうとして咀嚼し消化し吸収する。この作者と読者の共犯関係ともいうべき、双方の作用によって「やがて君になる」の面白さは成立している。
言い換えれば、「やが君」は読者に行間を補完する主体性を要求するのだ。完結後二年が経っても多くの人を魅了してやまないのは、本を開くとそこに読解を待っている物語が存在するからではないだろうか。